「おぼっこ」五周年記念特集号(昭和41年10月20日発行)復刻版



 苦悩と喜びの日々
四代目会長 照井邦彦
                              (昭和40年卒)

 実は先日、会社の新入社員教育の合宿で御殿場にある国立青年の家に二拍三日で行って来た。ミーティング、シーツそしてキャンドルサービスとYHGの昔を偲ばせるに余りあるものばかりだった。キャンドルの炎を見つめていると、盛岡の事、岩大YHGの事、先輩、同輩、後輩の顔と顔が走馬灯の如く次から次へと私の胸に浮び上がって来た。それはあたかも過ぎ去った昔となったのだと言う事を自覚させるが如くに……。
 回顧録とは名ばかりで昔を思い浮ぶままに書き綴りたいと思う。私達二十二名(男十一名、女十一名)は四十一年四月にYHGの後輩諸氏によって送り出されたが、早いものでもう一ヶ月半も過ぎてしまった。私達が岩大に入学した三十七年の六月にYHGが倒立されたのであるから、私達の卒業を以って丁度一巡したことになる。
 私達が二年生になった時、我部は一躍百名を越える部員を有するクラブに膨張した。クラブ設立の年数も少なく、YH団体としての運動の如何なるかも確立せぬ内に急激に膨張した我部は内部的に煩雑な雰囲気を持つ結果になってしまった。
 私選の中から十一名の役員が選出されクラブ連営を任せられたのは三十八年の十一月の事であった。当時は役員に任ぜられても、この膨張したクラブを如何に運営すればよいものか困惑するばかりであった。そんな中からも二つの柱が立てられた。一つは当時全国的に叫ばれていたホステラーの質の向上、一つはYHGの野外活動への進展であった。その目標に沿った企画を季節毎に組み込んだのであったが思う様にゆかないものばかりであった。
 私達の集会は常に土曜日午後一時から十一番教室で行われ、活動の骨髄をなすものであったのだが、大世帯であるが故に行き渡らぬ事や心の満されない事が生じ、その対策に一年間が明け暮れた様なものであった。今にして思えば、当時の光景が鮮かによみがえり、集会が楽しくて楽しくてならなかった日々、又何をするのか解らなくなって重荷に苦しんだ日々の事が懐かしく思い出される。
 私達が役員になった時からそれ迄の半年の任期を一年間に変えたのは、やはり一年を単位として時間をかけてまとまった事が出来る様にと思ったからである。任期を何月から何月迄にするかは今もなお幾多の問題を含んでいると思う。
 我部はYH団体であったが故に、自然に親しむ機会や興味を抱く人が多いことは確かであった。然しながらその自然に対する敬愛は、どことなく足が地から離れたうわべだけの如くに感じられていたのである。私達は部員がもっと深く自然に対し地に足の付いた活動をしてほしいと願い、多少の無理を押してキャンピングを取り入れたものであった。五十数名の部員の参加の内、装備の整っている者はほんの一部にすぎず、部の団体装備とて露営するには貧弱なものであった。然しキャンピングを部に取り入れる事に対して、不確定な部の方向定めへの一つの足掛りとしたかった上に、マンネリ化しつつある部の現状打開の一方法としての期待を担ったものでもあったのです。時期早尚の不安はあったにせよ、いずれキャンピングは取り入れざるを得ないものであるという信念の基に立って実行したのである。その結果は先ず先ずであったと思う。自からで肯定するが如く、私達は送別の記念品にとテント一式を部に寄贈してきた次第である。 何しろ一つの行事に対する参加人員が多くなってきたので、ホステリングするにも一つのYHで全員を集中させる事に困難を生じ、その時に考えられたのが分散形式のホステリングである。分散ホステリングに於いて一コースを二十名前後と想定して、小なる集団にて親睦の効果をあげ、かつ一人一人の存在意識を高める事に依り、金魚のフン的存在を無くする事をも目標にしたのでした。然しあくまでも分散された一コースは常に全体の中の一コースである意識を忘れぬ事を徹底させておかねばならないのは言う迄もない。 思えば私達は何も出来なかった。後に続く後輩諸氏が良くやってくれている事を嬉しく思う。私達二十二名は卒業して夫々各地で仕事に励んでいるであろう。OB会もある事だし、末長い交際を保ってゆきたいものであると願っている。
 先月横浜で会員証の切替えをして来たが会員証を見ながら一つ一つのスタンプに当時の事を懐しく思い出して、今後何度この会員証を使えるだろうかと思う。例えYHを訪ずれる事はないにしても、ホステラーである事を忘れずに誇りを持ってゆきたいと思った。
ー完ー
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