石川啄木と言えば、北海道函館市・
宮沢賢治と並んで私達と縁の深い詩人です。
 チョット蛇足ですが・・・
ここから下は石川啄木が大好きだった細川政明(赤坂浩美の父)の記録です
   これは私の父が20才の頃の詩集で唯一の形見です。(函館の実家は父の死後火事で焼けてしまったので)何故か、この3冊の詩集だけ、学生時代から私が持ち歩いていたものです。最近片付けをしていて見つけました。今読み返してみると、20代の頃の父の素顔が見えて、何とか残してやりたいと思うようなりました。
 父は大正6年の生まれで、尋常小学校を出ただけで学歴はありません。しかし読書家で啄木は大好きで、本は随分読んでいました。達筆で、左手も使え、絵(スケッチ他)も上手く兵隊時代も重宝されたようです。
 20代は殆ど戦争時代(旭川連隊)で、防人として北海道中を歩いた短歌があります。満州に行ったことがあり、結婚前の母への葉書や手紙が沢山あったのを覚えています。戦争の話は一切せず、痔の手術で看護婦さんにモテたこと、駐留していた戦地の女性には一切手を出さなかったことが自慢で、大虐殺などの話は聞いてもノーでした。戦後、会社努めになってからは晩年まで見事な会社人間で、まして青春時代の父がなにを考えていたのか、など聞いたこともありませんでした。  
 細川政明20歳から28歳ころ戦争時代の記録  

 父との会話の思い出や記憶はほとんどないけれど、何故か持ち歩いていた父の若い頃の短歌集と随想3冊。まして20代の話など聞いたことも無い。
 しかし最近、読み返してみて新しい発見をした。わたしも高齢者と言われる年になったからかもしれない。そして戦後75年当時の若者はなにを考えていたのだろう。そんな事を知るとともに父の文才というか、小学校卒で学歴の全くない人が、いかに本を読み、書を書き、独学していたかに驚愕した。戦後、次男坊で北電の函館支店の兄貴の親友の会社の専務をし、後を引き継ぎ社長になってから死ぬまで、会社人間としか思えなかった父,戦争の事を聞こうとすると手で罰点をし、偏平足で歩けなく、痔の手術の時の看護婦さんに好かれ、外地の女性には手も触れなかったことだけは自慢していたその人を思い出してみた・・・。
   ─娘・赤坂浩美─

1917年(大正6年)1月2日 函館市生まれの巳年
1937年(昭和12年)20才 随想(初恋)白夢
1942年(昭和19年~20年)1月6日までの記録若芽

1945年(昭和20年)28才
 慶子と結婚
1946年(昭和21年8月)浩美誕生
(1948年 妹洋子誕生)
1982年(昭和57年) 5月15日、
母細川慶子死去(57歳)
2003年(平成15年) 6月13日、
父細川政明死去(87歳

◆白夢(昭和12年㋀1日)20歳(1937)頃
  
 山の端の月おぼろなり かみがみを 
おろがみつつも こころ重りぬ
 いと易きことぞと言いて 友どちを
こころせきつつ 16人あつめき
 出でて八年! 会わざる友と酒くみて 
語ればつきぬ 吾想いかな
 いたく恥じぬ! 会はざりし友のそれぞれの 
その装いの疎むこころを
 腕白盛りのその友どちの 仇名なぞ
思い出して 語るぞ楽しき。
  いつかまた古き傷痕に ふるるごと
思ひやみつつ 次の街を歩む
 かなしきはこの傷痕よ 癒えてなお
血を噴くごとし やみがたき哉
 ひたひたと争う血をぞ かなしくも 
思ひ惑ひつ彷徨へし哉
 リアリスト なぜか愉しく語りつつ 
ぢっとかなしき めをもてるひと
 徴兵検査! いといかめしき髭を持つ 
軍医の顔の おかしかりけり
 並びつつおのれとなるを こそばゆき
面はゆしさに 陽を眺めけり
 ひややかに 人を見つむるこの頃の 
吾もつ癖を哀しく思ふ
   悲しきはやみがたき癖! はびこりて 
吾良心の目ざめける時
 死! 死! 死は無限なり! 
超然と死を待つ君を にくしと思ふ
 やがて消えゆかむものかは 若き日の
そのもゆる焔を みださむとする
 雨に濡れつつ街を歩めり 待ちてあれば
やがて晴れむを 知りつつ歩めり
 雨!雨!雨! 降れよ雨!豪雨ともなれ!
 ひたぶる雨の降れよと思ふ
 微笑みぬ 君微笑みぬ さわやかに! 
和める君のうれしかりけり
 歪みゆく吾うとましめ! さわやかな
君の笑ひの 今日そめて見ぬ
 酒場の隅の 幼馴染の友達の 
変れる君に 胸ふさがりぬ
   かくばかり 人間共を嫌悪しつつ 
君恋ふ吾の あさまし哉
 独りありて 本を讀みつつ思いけり!
 はやく何とかなれよと思へり
 頑な人に接して いたづらに 
もの言う吾の いとほしかりき
 父母の 吾より先に死ぬるなと 
祈ると語る 友のよろしさ
 東京へ ゆく弟の甲板に
立ちてありけり 風寒き朝
 なにか恐れあり 希望なきまま 
いにてゆく 吾弟の無表情なる
 思うことなし 吾二十年を味気なく 
過ごせしままに 誰を咎むる
 弟よ 何時か会い見む 君をして
 南の空に今見送りつ
  


 昭和13年9月応召(1938) 昭和15年12月帰還(1940)
 昭和17年応召(1942)から昭和20年1月6日(1945)
  
◆若芽 昭和20年1月6日28歳(1945)頃(抜粋)
 
 根室なる町の片隅の いと小さき銭湯に
入りて 泣き度きこころ
 燈管の根室の町よ 人の灯よ 
ただふるさとを 恋ひにけるかな
 霜深き根室を出でて ただひとり 
鉄路遥けき寒村をゆく
 釧路てな 町のけはいもしりやらず 
霧深きまま 発ちし汽車はも
 白糠駅に 中学生の下車ゆきて 
艶なき人々 疎にのこる
 無医村なれど島に住むと いうひとなりき 
そのかたらいを 胸打たれ聴く
 白糠の駅に停車す二分間 
ただ何となく そを尊く思いぬ
 色丹の島に宿りて いねやらず 
夜半に吹き荒ぶ こがらしを聴く
 露営せる役場の 暗き廊下なり 
古き洋燈を かなしく思ふ
 裏山に 手のとどく程きらめける 
星のありけり 厠に立ちしに
 洋装の若きおんなの写真あり 
暗き洋燈の下 兵らそめきおり
 文化という ものの主観の哀れさを 
かえり見すれば さみしくもあるか
 その昔 青春の血を湧かせたる 
姿なるかも はかなかりける
 裏山に 流離土民の築きたる 
墓ひとつありて 日に照り映ゆも
 故郷を 離れ流れて このしまに 
生命絶ちたる 露民のあわれ
   かなしみを 知る故にこそ 
更に強く生きなむものと けふもし送る
 この憤怒 神土を汚す獣敵を 
撃たづは止まず われ砕くとも
 大いなる憤怒のありて ガチガチと 
歯を噛み鳴らす 北に在りて吾は
 

(サイパン島玉砕のニュースを聴きて悲憤やる方なく
(S19年7月21日))
 
 わきだてる かなしみどもが そらを打ちて 
 もゆるが如き けふの夕空はも!
 
 激しくも続く悲報や 雲そめて 
落ちゆく陽もよ 我胸痛む
 

  (昭和20年1月6日)28歳頃
 
   御みいくさ 余りに深き御聖慮に 
極まり泣きて 草芥は生く
 ほろほろと 酔いてかしこし齋酒 
くみて語らひ 夜のあくるまで
 この御戦 断じて捷たむ 何事ぞ 
小論なとは 蹴飛ばしゆかむ
 いまだ猶 毛唐の如き言挙げす 
輩かなしき 元日の朝
 盤石の国体観を樹立せよ 
遠つ御祖の 血は泣くらむぞ
   木の股から 生れた如き言を吐く 
懐柔論者を ひそかに嗤う
 錬鉄ずして なに切れ味はよかるべき 
まがつ刀は そのままに生く
   恋もせよ、迷はば迷え さり乍ら 
生死一如の 戦陣に生く
 防人となりて  北邊を守りながら 
恋うは是か非か かなしきは過去
 
 ひたぶるに 皇御国の 益丈夫は 
神へのみちを極みいゆくも
 ひたぶるに 皇御国の 益丈夫は 
死生一如のみちをいゆかむ
 ふと魂の みちをしゆけば なにごとも 
越え難きをあらさらめ
   この御戦 捷ちのきわみに あうまでは 
魂は死なずと けふもたたかう
 後の世に 残る勲功は立てずとも 
力の限り たたかい抜かん
 たたかいは 日夜を限らず われにあり 
遠つ御祖の世にあわむとて
 議事記録 読みてかなしき憤怒滾る 
いびつ根を張る上層階級
   建白書 あげて幹部にうとまれし 
志士十人の無念をおもふ
   もりあがる声聞くべしと 宰相言えど 
採りて捨てける人の憎しも
 何事ぞ! かかる輩の多くして 
民の赤誠の上に立つとは
 誠、誠!誠なくして聖戦の 
高き理想は永久にとどかず
 日々を 芥のごとく捨て去りて 
さて防人と嘯ける人
   言挙げす 聖りの勲 無きわれは 
ひとをたのまず ひたすらゆかむ
   神の心 特攻隊の人々の 
無言の訓へ ひたにかしこむ
   散る桜 残る桜も散る桜! 
ああ 吾ひとり いま泣かむとす
 わぎもこは 君ゆえにこそ いみじくも 
かく変れりと文を寄せける

  
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